真田幸村の家系図
真田信繁(幸村)
僕が「真田幸村」を知ったきっかけは、やはり某戦国シュミレーションゲームなのですが、その後、幾つかの歴史小説を読んだことで、大の「幸村」ファンになりました。
物語の英雄「幸村」は史実とは異なる点があるにせよ僕を惹きつけて止みません。
「幸村」が一躍歴史の表舞台に登場するのは大坂の陣のことです。
徳川家康の本陣に3度にもわたって突撃を仕掛けた「幸村」は家康を討ち取る一歩手前まで追い詰めましたが、ついに力尽きてしまいます。
その攻撃はすさまじく実はこの時、家康は本当は死んでいたなどと噂があるほどです。
この時の戦いぶりを伝え聞いた当時最強軍団を率いていた島津忠恒は「真田日本一の兵(つわもの)
古よりの物語にもこれなき由」と語ったと言われています。
- 略年表
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永禄10年 出生。
天正13年 19歳、真田家と上杉家が同盟を結んだ為、人質として越後へ赴く。
天正18年 24歳、北条氏攻めに参加。松井田城の攻略で初陣する。
文禄3年 28歳、従五位下左衛門佐に任じられる。大谷吉継の娘、安岐姫と婚姻。豊臣姓を賜る。
慶長5年 34歳、石田三成に呼応し父昌幸とともに西軍に参加、信州上田で徳川秀忠軍を足止め
するが、関が原で東軍家康が勝利し父とともに高野山九度山へ配流される。
慶長19年 48歳、豊臣方の要請により息子大助とともに九度山を抜け出し大坂城へ入城。
慶長20年 49歳、大坂夏の陣にて家康を窮地に追い込むが、討死。
墓所:長野県長野市 長国寺など他